ひぐはの日記帳

日記です

コロナウイルス感染日記

はじめに

世間では第7波がと騒がれ始めた今日この頃、2022年7月14日にコロナウイルスが陽性であると前日に受診した病院から連絡がありました。以下はコロナウイルスに感染した経過を日記にしたものです。

 

前日まで

コロナウイルスのワクチンは2021年の9月と10月に二度接種しておりました。3回目のワクチン接種については学校で実施されていた職域接種に自治体から届くはずの接種券が間に合わず、そのままなあなあになっていたので打っていませんでした。(接種予約する際に接種券の提示を求められました。2回目接種の時に虚偽報告で3回以上打った人がいたからでしょう)

 

感染したタイミングについて詳しい事は分かりませんが7/10の参議院選挙で投票所の運営補助のバイトをした時に感染したのではないかと思われます。比例代表の投票券を2000人以上の人に配っていたのでそのうちの誰かからコロナウイルスを食らったと考えるのが自然なのではないでしょうか。

7/11までは体調に特に変化は無かったので普通に生活していました。今思うと7/11には少し喉に違和感があった気がしますけどもクーラーに直で当たっていたので体が冷えたのだろう程度に思っていました。

 

7月12日

前日から続いていたのどへの違和感がさらにひどくなります。ただたまにそういう事もあるので普段通りに大学に行きました。この日はいつもより疲れやすく感じました。午後になって専攻実験のTAのバイトがあったので参加したのですが勤務中ずっと頭痛いな~ふらふらするな~寝不足かな~と思っていました。

そんなこんなでTAのバイトも終わり研究の進捗がよろしく無かったので自身の実験を始めました。フラフラしていたのかそれともただの偶然か実験器具を2つ壊しこれは体調が悪いからに違いない!と思って急遽居室に戻り目の前にあった体温計で体温を測ってみた所、39.2度と表示された体温計が目の前にありました。

ここからが大変です。実験の途中だったので高熱があったのに関わらず実験装置の立ち下げをしなければなりませんでした。フラフラの中なるべく人に会わないようなルートを通って実験室に向かい立ち下げをしました。午後6時だったとはいえ学内にまだ人が沢山いたので避けて通るのも大変でした。もしかしたら通りすがりに何人か移してしまったかもしれませんね、ごめんね。

いつもなら30分で終わる作業に2時間かけ何とか終わらせた後、家族に連絡しました。私は自宅から大学に通う大学院生なのですが学校の近くに住む為の家があります。家族を濃厚接触者にするのも後で面倒くさい為、とりあえず大学近くの家に滞在する事に決めました。コンビニで取り敢えず1日分くらいの食料を買った後、大学付近の家に戻りました。体温は39度前後を行ったり来たりしている程度で後は喉に若干の違和感がありました。あとはちょっと頭が痛いか?よく聞く味覚障害みたいな症状は今後も出ませんでした。この日は飯食って普通に寝ました。汗が沢山出ました。これはコロナの症状だったのでしょうか。

 

7月13日

朝になって喉がさらに痛くなっていました。とはいえ風邪の時の痛み程度です。朝の時点では熱は38.5度程度でしたが昼ごろから下がり初めて夕方には平熱になりました。頭痛や倦怠感なんかは起きたらなくなっていました。取り敢えずコロナかどうかは確認しておきたかったので病院を探し始めます。前日に何人かからアドバイスは頂いていたのですが、保健所に電話して今現在発熱外来を開いてて本日分の予約が埋まっていない場所をいくつか紹介して貰いました。自分の所在地を話したら付近の発熱外来を紹介してくれるという形です。結構親切でした。昼まで面倒くさかったので動かなかったのですが12時地点に予約しようと思い立って17時半からの予約が取れました。

発熱外来とは発熱した人が他の一般の病人と鉢合わせしないように別室から入り診断を受ける感じのシステムです。保険証や費用を渡す際も直接手に触れないようにビニール袋に入れて消毒してから触ってました。感染防止の為仕方がないのでしょう。待機場所も下の写真の様に隔離された個室を割り当てられました。

病院内に個室は2つあって車を持ってる人は車内で待機するようです。スマホで問診票を書いたら1分程度の医師との問診の後、じゃあPCR検査しますね~とまた別の部屋に送られました。ちなみにこの頃には熱は引いて平熱だったので問診票をどうやって書こうか迷いました。大量の唾液を容器に入れてPCR検査を行うようです。こんなに唾液が出るのかと思う程度の唾液を要求されたので採取するのにとても時間がかかりました。その後風邪薬と熱さましの薬を渡されて病院を出ました。つくば市PCR検査は無料なのですが診断費は普通にかかったので診断で3000円、薬代で600円かかりました。結構高いですね。検査結果は次の日の午後には出ますと言われたのでとりあえずそこまで待って陰性だったら7/15から研究室復帰かなと思っていました。

コンビニで2日分程度の食料を買い込んで家に戻りました。

 

7月14日

喉の痛みも大分引いて来ました。少し倦怠感が残っているような気がしましたが誤差です。

とりあえず検査結果だけ待って陰性なら次の日から復帰かなと思ってました。

午後になって病院から陽性ですと連絡がありました。体調大丈夫ですかと聞かれて大丈夫ですと答えたらはいわかりました。後で市からSMSで連絡が来ますね。お大事に~とだけ言われて電話を切られました。もう向こうも慣れっこで流れ作業なのでしょう。特に深刻な感じもありませんでした。自宅療養の期間は発症の次の日から10日間なのだそうです。発症が7/12なので7/13から数えて10日間です。既に体調も回復した時点でこんな事を言われたので面倒くさいなと思っていました。

市からは電子申請システムで体調や個人情報の調査がありました。ここで自宅療養かホテル療養か選べるシステムになっておりホテル療養でもお金は掛からないと書いてありました。ただPCなどがない部屋に10日間監禁されるのも嫌なので自宅療養を選択しました。その後濃厚接触者の定義と療養期間の日にちが送られてきて終了です。濃厚接触者の定義はマスクのしてない状態で密室で1m以内15分以上なのでTAの時に担当した学生も濃厚接触者に該当しないなど結構緩い基準でした。思い当たる中で濃厚接触者0だったので研究室に7月22日まで休む旨だけ伝えました。この日に家族が着換えやら10日分の食料などを持って来てくれたので以降に外出する必要もなくなりました。

 

7月15日~

喉の痛みも消えて体調も良くなったのでここから8日間の計10連休の開始です。まだ自宅療養期間中なので自室で堕落の限りを尽くしています。楽しいです。病気を理由に全てのタスクを放り投げて堕落しつくします。溜まったアニメも積みゲーもこの機会に消化しました。書いてる日は7/21なのでこの生活があと2日で終わると思うと少し憂鬱ですが忙しい日があるからこそ休みが楽しいのでしょう、残り2日を悔いなく過ごす事で、放り投げてたまり切ったタスクも処理できる事でしょう。きっと

 

おわりに

期待していた市からの食料配給などはありませんでした。つくば市はそのような制度はないみたいです。ケチめ

電子申請システムでアレルギーも聞いてきたので結構期待してたんですが無かったみたいで残念ですね。

ただこれだと一人暮らししてた場合一度スーパーなどで買いだめをしないといけないのできっと陽性出てから買い出しに出かける人もいるんだろうなあと思いました。自分の場合は家族が10日分の食事を持って来てくれたので耐えましたが、特殊なケースだと思うので。

なのできっと感染者が一定程度街に繰り出してると思われこれから過ごす上で注意が必要だなと思いました。きっと今回の感染で免疫がついたので暫くは感染しないでしょうけどね。

 

車校いったら濃厚接触者になった話

2020年と言えばなんでしょう。色々あったと思いますがやはりコロナと答える人も多いと思います。ニュースが一面コロナに染まってましたからね。外出自粛やオンライン授業など、思えばコロナのせいでろくでもない一年だった気がします。

さて今回はコロナが騒がれ始めた3月末に丁度行ってた自動車学校で濃厚接触者となった時の話をしたいと思います。

 

1.合宿免許に行くまで

通学で取る普通の免許が30万、合宿で取る免許でも最低20万程かかる免許ですが、我が家では免許のお金を親に出してはもらえず自分のお金で取らなければならなかったので大学の学類(一般的な大学の学部に相当するもの)で大学1年の夏に主催されていた免許合宿には参加出来ずお金がある程度たまるまで待たなければなりませんでした。

そんな中ついに大学2年の夏ごろにはお金も十分にたまったため大学2年の春休みに取得する計画を立てました。合宿免許で安くてコスパの良い人気な教習所は半年前から予約を取らなければ予約が埋まってしまうので予約開始と共に電話して予約しました。

 

米沢ドライビングスクール自炊シングルコースAT限定3月23日~で予約しました。値段は19万1400円、早割でここからさらに5000円引き。交通費全額支給(東京からなら往復代として2万円)。

相場と比べても安い値段で予約する事が出来ました。この頃は特に一人暮らしみたいな事をしてみたい!という欲求もあった為自炊コースを選べるところを選んだと言うのもあります。

途中、同じく免許をまだ取っていない友達も1日遅れの3月24日入校でほぼ一緒にいく事になりました。

前述した通り一人暮らしもどきの事を出来るとあったので免許の取得以上にそっちが楽しみでした。そしてワクワクしながら3月まで待ったのでした。

ちなみに濃厚接触者になったこと以外はとても良かったので免許持ってない人は是非↓

www.menkyo-school.jp

 

2.合宿免許での生活

免許合宿の日が近づく中、国内そして世界ではコロナのニュースが登場し始めます。2月には武漢からのチャーター便やらクルーズ船やらのニュースでしか見なかったコロナも3月に入ると少しずつ日常に影響が出てきます。政府からも外出自粛要請は出るし私が普段使っていた公民館も閉鎖されるしで免許合宿も開催されるのか心配になってましたが結局最後まで中止の連絡は来ず、行く事になりました。

免許合宿に東京から新幹線を使って山形まで来ることが想定されて往復2万円支給されるのですが新幹線を使った証明などは要らないという事で2日前に家を出発して鈍行列車を使って旅行しながら山形の米沢まで行きました。

そして入校当日、米沢駅で他の参加者10名と共に車に載せられて教習所に運ばれます。

画像

学科や実際に車に乗る教習を受けて1日目も終わり部屋を案内されました。

画像こんな感じの所で結構良かったです。この時はまだここから3週間ここで過ごす事になるとは思っていませんでした。

最初の一週間はいわゆる普通の楽しい合宿免許を過ごしました。教習も曲がるところ曲がれなくて直進して脱輪してキレられたり赤信号無視して直進しようとしてキレられたり無線教習でコース分からなくなって全くでたらめのコースを一時間走ってキレられたり、君は運転しない方がいいと言われたりと色々しましたが着実に上手くなって行きました。そしてついに3月30日には仮免許の取得に成功します。

また教習以外でも周辺の米沢8湯と呼ばれる温泉巡ったり、念願の自炊を含んだ一人暮らしもどきをして一杯色々な料理作ってました。

画像画像

アホみたいに買った野菜達と作ったたこ焼きもどき

 

これ以外にもいっぱい作ってとても楽しい合宿免許生活を楽しんでいました。

 

3.濃厚接触者へ

3月30日に仮免許を取った次の日、いつもは宿舎から教習所までのバスを使って行く事になってるのですが教習が午後スタートだった事もあって折角ならばという事で米沢市内を観光しながら歩いて教習所に向かってました。教習所で無料の昼飯が食べられるので向かうと教習所の前が異様な雰囲気に包まれていました。そして誰も生徒がいないことを不思議に思いながら入ると凄い剣幕で受付の人に「なんで来たの!?というかどうやって来たの!?」と言われてとにかく自分の宿に帰れと追い返されました。

定休日があるとは聞いて居なかったので不思議に思いながら宿に帰りました。最初は状況が分からず困惑していたのですが少しずつ嫌な予感が脳裏に浮かんできました。

何か想定外の自体が起こって教習所が急遽閉鎖されてしまったのでは無いかというものです。

そして宿に帰って一緒に来ていた友達に何が起こっているのか聞いて見たところどうやらこの教習所でコロナ患者が出たらしいと聞かされました。どうやら教習所に行くバス乗り場で事態の説明がなされていたようでした。暫くの間教習は中止、今後についての説明はこの後行われると言われました。

3月31日、コロナ患者が発生して居なかった山形県で初の感染者が米沢市の教習所で発生。これに巻き込まれました。

www3.nhk.or.jp

 

ここでまず一回目の説明会が宿舎で行われました。マスクを持ってない人はマスクを配られ、アルコール消毒をさせられ換気をした状況で説明会が始まりました。

ここで山形県の保健所の人が来て、まず初めに自分達が濃厚接触者である事を告げられます。そしてこの濃厚接触者の中でさらに3段階に分けられることになりました。

まず一段階目が教習所で実際に感染してた人と一緒に過ごしてた人や教習で感染してた人の車に乗っていた教官の計7人。

次に二段階目が感染してた人と同じ入校日に入校して一緒に学科を受けてた人達(3月24日入校の人)。

最後に三段階目がそれ以外の教習所にいる人達です。

自分はこの三段階目で一緒に来ていた友人が二段階目でした。

一段階目の人達は実際にPCR検査を受け、二段階目と三段階目の人達は自主隔離と経過観察をするように言われました。

教習は暫く中止でその後の対応については後日追って連絡するとも言われました。

そしてここから外出する事は基本禁止され3食弁当が支給されることになりました。

このニュースは瞬く間に全国に広がったようでTwitterで米沢ドライビングスクール関連の生活をツイートしまくっていた自分の元にも心無いDMが届いたりするようになり鍵垢にせざる負えなくなったりもしました。最終的にこの件で200人くらいブロックしました…

 

4.隔離生活(?)

さてそうして隔離生活は始まりました。楽しかった合宿免許生活は恐怖の隔離生活へと変貌します。クラスターが起きてダイヤモンドプリンセス号のようにこれから感染者が爆増するかもしれないしそれなら自分も感染してるかも知れない。という恐怖がありました。当たり前の話ですが今と違ってまだコロナが一般に広まってたとは言えない頃だったのでマスクしてる人は少なかったし人気な教習所だったので教習所内は常に混雑していました。

そんな訳で恐怖に感じながらも過ごしました。こんな事になると想像して居なかったのでPCも本も持って来ておらずスマホとテレビだけで過ごしていました。自炊コースでまだ冷蔵庫に買った食材が色々残っていたので少しずつ作りながら暇を潰しました。流行ってた蘇に関しては誰にも作る上手さでは負けない程に上達しました。あれ以来作っていませんが

ニュースを見てもこの頃になるとコロナ一色に染まっていて緊急事態宣言がいつ出るのかと言った話も目にしました。

そんな中嬉しいニュースも。自分の教習所で実際にPCR検査をしていた7名が全員陰性との事でした。つまりこの教習所ではクラスターが起きてる可能性が極めて低いという事でした。

 

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ここで二回目の説明会が教習所によって行われます。

ここでもう家に帰りたい希望者は帰って良い事、隔離を続けたい人は4月10日までならここに居ても良い事、教習料金は全額返金して交通費も前の通り全額保証する代わりに退校との事でした。

無料で3食昼寝付き(昼寝以外することない)という事だったので上限の4月10日まで居座る事にしました。ここにきてクラスターが発生してない=自分も感染してないと言う事なので少し誰も居なさそうな場所を選んで外に出て見たら地元の誰かに見つかったようで教習所に苦情の電話が多数入り自分の元にも直々に注意されてしまいました。米沢市の田舎ネットワークを舐めてました。これによって深夜徘徊以外出来なくなってしまいました。

ここからさらに4月10日まで虚無の時間が続きます。朝昼夜は寝て食事の時間になったら起きて弁当貰いに行って深夜になったら周辺を徘徊する生活です。

 

5.帰宅

そして4月10日、教習所から自宅へ帰宅しました。この時も新幹線を使わずに18きっぷの残りを使って帰りましたが福島、茨城、千葉と帰り道を通るに従ってマスクしてる人は多くなっていったのが印象的でした。

ああ、世の中は変わってしまったんだなと思った瞬間でした。大学も開始が4月下旬へ延期されオンライン授業化

今もまだ昔の日常は全く戻っていませんが、自分の中ではこの濃厚接触者になった出来事がその生活の変化の節目であったように感じます。いつか戻るといいですね

 

6.後日談

さて退校になった合宿免許ですがその後6月頃に退校になった人の為のプランが米沢ドライビングスクールで募集されていたのでそれに応募することになりました。7月初旬に大学のオンライン授業を受けながらの参加で期間は7日、交通費は全く支給されなかったものの9万円で免許を取る事が出来ました。ある意味ラッキーですね。

学生時代と英語①~中学高校編~

はじめに

私は生まれてからというもの英語が苦手で英語に苦しみながら学生生活生活を歩んで行きました。あまりに英語が出来なくていつも悩んでたので、ある意味英語と共に歩んできた学生時代ということも出来るでしょう。不本意ですが。

そんな訳で今回の記事では英語と共に歩んできた学生生活について語っていこうと思う。

 

1.中学校時代

英語との出会いは当然中学校です。小学校の時も学校でなんちゃってな英語の授業はありましたがまだまだ小学校の英語教育黎明期だったのか存在意義すらよくわかりませんでしたし成績という概念もありませんでした。

さて、そんな私は中学受験をし、某都内のそこそこ有名な中高一貫校に入りました。

そこで初めて英語の授業というものに出会う事になります。とは言え最初の頃はまだ普通でした。なにせ中学校で実質初めて出てきた科目だったので寧ろ英語の授業というものにわくわくすら感じていました。

そんなこんなしていく内に中学1年1学期中間テストがやってきます。

 

結果は学年340人中240位

 

特定の教科が悪いというよりは全体的にそんなに良くないと言った感じでした。

これには中学生ながらにヤバいと感じました。正直小学校の頃には学校では誰にも成績で負けたことはありませんでしたし、塾でだって常に上位にいたので平均を下回ると言った経験はこの時に初めてしたからです。学内テストでも偏差値が出るので偏差値を見てみると全部40代後半と言った感じでした。

今考えて見るとまだ一発目のテストで実力差は生徒間でそこまで開いてはいないはずなのでそこまで慌てる事は無いよなぁとは思いますが当時は本気で焦っていて期末こそは...!という思いから定期テスト勉強にさらに本腰を入れることになりました。

 

結果中学1年1学期期末テストは学年340人中130位

 

ここで勉強の成果が出たのか順位を100位以上伸ばし希望の光が見えました。しかしここである教科が目に着きました。他の科目は全て平均点を上回り状況が好転しているのにも関わらず英語だけが前回よりも酷い点数になっていたのです。別に期末で英語だけ手を抜いた訳ではなく普通にはやったつもりでした。次のテストでの課題は英語だなとそう思いました。英語さえ平均でも取れればこの集団でも頭一つ抜けられるという確信があったからです。

中学1年2学期中間テストでは英語に力を入れる事になります。前に比べて英語の時間を増やす事で対応しました。勿論、受験も終わり時間が経つにつれてモチベーション自体は少しずつ下がって来てはいましたがまだまだありました。

 

結果は中学1年2学期中間テスト学年340人中180位

 

ここで英語の点数が赤点になります。私の学校では赤点は40点でした。確か38点とかだった気がします。初めての赤点だったので今でも鮮明に記憶に残ってます。きっと走馬灯にも当時の記憶が出てくると思います。

ここで母親の勧めで英語の補習塾(?)なるものに入ることになります。

定期テストの点を○点上げます!みたいな広告出してるような塾です。

ここで定期テストの度にそこの塾で英語の勉強に奔走する事になります。

結果としては英語の点数は少し上がりました。平均には全く届かなかったものの赤点はそこから暫くはとりませんでした。

しかし一つ、大きな問題が生じます。定期テストがある度に週3、4日その塾で英語ばっかりやるものですので他の科目の点数は徐々に下がり始めます。

今私の部屋に当時の成績表が残されているので順位も分かるのですがこんな感じです

 

1年2学期期末340人中170位

1年3学期期末340人中220位

2年1学期中間340人中260位

2年1学期期末 紛失

2年2学期中間340人中250位

2年2学期期末 紛失

2年3学期期末340人中300位

 

順位の下落と共に自分のやる気もどんどん下がっていきます。

ついていけない科目は英語だけでは無くほぼ全ての科目でついて行けなくなりました。

やる気も完全に無くなり授業中はずっと寝てました。なんなら登校中に電車内で寝落ちして山手線を3周くらいして3限から登校みたいな感じの事がざらにあるようになります。

この時に満員電車の中で立ちながら眠る事も習得し始め遅刻回数はさらにどんどん増えていきました。

他にも学校で色々あったりした事もあって¨深海魚¨という言葉がピッタリな感じ。

深海魚というのは進学校で成績が一気に下降して授業に全くついて行けなくなっている人の事を表す造語です。

↓こんな感じ

gendai.ismedia.jp

 

2.どん底のその先へ

 

中学2年の終わりまでにこのような絶望的な状況まで追い込まれていました。

さらに中学3年の1学期もさらに成績は下がり続けました。ここまでくるとテスト勉強どころか授業すらまともに聞いていなかった気がします。勉強に対するやる気はもちろんゼロで何を考えてたかすら覚えていません。闇です。無です。

墜ちる所まで落ちてますね。

そうして中学3年2学期中間にはついに343人中342位←!

ここまで墜ちました。

ここで問題が。私の学校は中高一貫校なのですが実は高校に上がるには条件があります。というかどこの学校も基本的にはこのシステムのはずです。私の学校では基本大体20人くらいが高校に上がれずここで脱落します。この高校に上がる為の条件というのは中学3年の2学期中間と2学期期末の定期テストの点数で決まります。

 

私の学校では高校に上がる為の条件として

①この二つのテストの全教科の平均が55点以上であること

②二つのテストの平均が赤点40点を下回る科目が2つ以上ない事

他にもありましたがこの二つが僕には引っかかったようで2学期中間が終わった後担任に呼び出されて高校受験で違う高校に行く事を勧められました。この時点で全科目の平均が43点、赤点が6こあったからです。期末との平均で55点を超えるには期末で全科目合計が67点以上を取る必要がありそれは実質不可能であると担任には言われました。

僕も高校で他の学校に行く事は絶対に避けたかったのでここから猛勉強する事になりました。そしてある戦略を実行する事を決意しました。

それは

英語を捨てる

と言う選択でした。

ここまで成績が悪くなったのは英語のせいだとこの当時は思っていました(実際には他にも原因はあると思います)

こういう絶望的な状況下だと何か一つのせいにしたくなるのは人間の性というものです。

英語さえ無ければ成績は上がるとそう自分に言い聞かせて英語は全く勉強せずそれ以外の科目に全力で挑みました。英語は赤点でも構わないのでそれ以外で大量に得点して全教科平均67点を取るというのが当面の目標になりました。

当時行ってた英語の補習塾もこのタイミングで行くのを辞めて英語の教材に触れるのを一切辞めました。

1日10時間の勉強を1か月以上に渡って続けて、さながら受験勉強のような体になっていました。

友人等のサポートもありながらも結果としてこの戦略は大成功を収めました。

数学(代数)、数学(幾何)、国語、化学、地学、世界史、公民

これら全ての点数が80点以上になり英語が過去最低の悲惨な点数でも平均して70点代になりました。(順位は340人中220位)

これをもって2つのテストの全教科の平均が55点以上を達成し高校へ進める権利を得たと同時に、英語を捨てればまだまだ点数を上げられるという自信も得てこの後も英語を完全に捨てて突き進んでいこうと思いを新たに定期テストの順位を上げる事に奔走していくことになりました。

 

3.高校へ、留年危機そして文理選択

この中学3年2学期期末を経て少しずつ成績は上向き始めました。

もちろん、英語は捨てる。英語が今までの闇時代を作った元凶!という想いはさらに強くなっていたので英語だけは全く勉強しませんでした。英語を勉強し始めたらまた成績が下がっていきそうで怖かったのもあります。

さて、そんなこんなで英語は赤点(高校からは30点未満が赤点)を取り続けていはしたものの順位はどんどん上がっていき小6ぶりに「勉強...楽しい!」と思えるようになっていきました。

しかし今までは義務教育の中学校だったのに対して今は高校。ここに来て留年という概念が登場します。

私の学校では一科目でも赤点があると留年でした。なので基本的には赤点にならないように調節されてるのですが全く勉強しないで臨むと流石にかばいきれないのか留年させられます。

当然私の英語の点数も常に留年の危機にさらされ続けていました。もう時効だと思うので話すとテスト返却された後に答え書き直して点数修正のような事も高校1年生の頃はやっていましたし、英語の先生に平常点を上げてもらえるように泣きついたり他のクラスの人から小テストの答え教えてもらうなど、とにかく恥を捨ててやれることは全部やりなんとか赤点からの留年だけは避けました。

さてこのように英語は悲惨な状態でしたが全体で見ると成績はどんどん上昇していました。特に世界史と数学はその中でも特に得意になっていて自信もどんどん上昇していきました。高校1年の終わりには成績は中くらい(330人中160位前後)、英語と国語以外は成績で全て平均以上を取れるようになってきました。

 

高校1年生と言えば文理選択をこの頃にやると思います。色々な所にオープンキャンパスなど行ってみたりして工学部(電気)か文学部(世界史)に行きたい!と思っていたのでこの文理選択は特に悩みました。

文系いって文学部行くか理系行って工学部行くか、どっちもいいなと思ったので最終的に大学受験でどっちの方が受かりやすいのかで決める事にしました。

当時の自分の得意科目は数学、世界史、苦手科目は英語という感じでした。理系なら英語が無くても戦えそうだなと思って最終的に理系を選択しました。

 

そうしてついに高校2年生になりました。大学受験というものも少しずつ頭をよぎるようになる頃合いです。この時に受けた河合(?)全国模試の結果が

数学偏差値60

国語偏差値55

英語偏差値25

といった状態でついに受験に向けて動き出す事になりました。

 

学生時代と英語②~大学受験編~に続く